もっとも大切な「純粋意識」

前回は、「心には表層意識と深層意識がありますが、人間には心が作り出す意識以外にもっとも大切なもう一つの意識がある」というお話をしました。


もう一つの意識。それは心が作り出す意識を越えた本当の私、自己そのものである「純粋意識」です。

 

心が作り出す意識は本来の自己ではなく、あくまでも「心」でしかないのです。

そして、純粋意識は心の動きが止まってはじめてたどりつく意識です。

では普段、この純粋意識はどこにいるのでしょうか? 

 


心が存在している間は、心に混じり合っていて、姿がわからなくなっています。

まるで水に砂糖を溶かした「砂糖水」のようです。砂糖水の中には、確かに砂糖が存在しているはずですが、外から見て砂糖は見えません。

砂糖水から砂糖を取り出そうと思ったら濾過する必要があります。砂糖水を火でグラグラ沸かし続けると、水分が蒸発して最後に砂糖の結晶だけが残ります。

 

砂糖水が「心と自己が混じり合った状態」、が「」、砂糖の結晶が「純粋意識」、そして濾過する作業が「瞑想」や「ヨーガ」といったところです。



この「心」という存在は実にやっかいなもので、どこにでも入り込んできます。

こうやってブログを書いている間も「なんかお腹すいてきたな」「そういえば冷蔵庫にまだ豆乳パンが残ったままだ」「あれ焼こうかな・・・」などなど、常に心は流動していて漂っています。

 

こんなことを考えている間は文字を打つ手が止まり、ブログのことなんてどこかにいってしまいます。毎日がこんな調子ではないでしょうか。

 

「今日は心を滅却したぞ!」「一切なにも考えなかったわ!」と言っても、「なにも考えなかった!」と、心が意識しているだけのことで、「なにも考えなかった!」ということまでも、つい心は考えてしまいます。

 


こんなにもやっかいな「心」。たとえその先にある自己「純粋意識」が大切だとわかっていても、なかなかそこまでたどりつきません。


日常の生活というのは、砂糖水を一生懸命濾過しているのに、常に新たな水が注ぎ込まれるようなものです。

だからこそなんとかしたくて、ますます「心」が気になって仕方ありません。

 

すんでしまったこと、まだ起きてもないこと、起きるかどうかもわからないことなど、過去や未来に飛んでいく「心」。一番大切なのは「今」なのに.....。

 

 

心を「今」にとどめるためには、やはり日頃の「瞑想」が一番です^^