物の見方、判断の基準について

めっきり涼しくなりました。

ますます食欲が増す今日この頃です。

 

今年は真夏も太ってしまって

「ああ~!私って太いわ~!」

とつい自己嫌悪に陥ってしまいます。


 

私たちは太ると「私は太っている」と、自分自身、自分そのものが太っているといった表現を使います。ですが、


太っているというのは、何を根拠にそう言っているのでしょうか?



私は体重が50ンキロもあっておデブちゃんだと悩んでいた20代の頃、エジプト旅行をしたことがあります。

 

その国の女性たちはみなとても肉感的で豊かなボディーの人が多かったです。

 

そうすると現地の男性たちが私に向かって「そんなに痩せて!食べるものが買えないのかい?貧しいのかい?」といった内容のことを言ったのです。

 

エジプトでは50ンキロでも「とても痩せている」と判断し、そして痩せている人は「食べ物が買えない貧しい人」と見なしているのです。

 

日本では50ンキロなんて、健康的な体型とは言われても、けっして「痩せている」それも「とても痩せている」などとはみてくれません。

 



私の50ンキロのボディーは同じなのに、物の見方、判断の基準が異なるだけで、一方は「とても痩せている」、そしてもう一方は「健康的な体型」になるのです。

 

そういった判断をさせるのは「心」です。

 

「心」は、自分そのものである「自己」ではありません。

 自己と心は別ものです。だから人の数だけ判断が異なります。

 心の数だけ違った判断があるのです。

 

そして大切なのは、「心が勝手にそう思っているだけで、『自己』とは何の関係もない」ということです。

 

「太っていると『私の心』が思っている」だけで、私自身は太ってもいなければ、痩せてもいない。私は私であり、私という自己がただ「ある」だけです。

 

 

人の数だけ異なる『判断基準』があります。

 

果たして、すべての人が『Yes』と判断してくれるようなことなどあるのでしょうか。恐らくないでしょう。

 私自身が太ってる訳でなくて、私の心が太ってると思うだけ。

 

太ってないと思えば、太ってないのよ~!

 

と開き直りたいところですが、確実に視覚的に以前とは異なるお腹のお肉。

 とても太っていないとは言いがたし・・・(-_-) ショクヨクノアキガコワイ・・・